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〔インタビュー〕 Jun. K 、ほろ酔いトーク 02.04

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Jun. K のインタビュー記事
訳しました
トークがはじめ
3つに分けて上がりましたが、
いつのまにか
② にすべてが集約される形であがってます
①と③も存在しますが....

②の部分に省かれた箇所があるので
たぶん編集ついでに、全文まとめたのかな
(JayのことはいまだNGなようで..)





http://isplus.live.joins.com/news/article/article.asp?total_id=19528299&cloc=


Jun. K ほろ酔いトーク
日刊スポーツ |2016.02.04



準ケイ(28)は、名前が三つだ。

生まれたときの名前はキム・ジュンス、改名した名前はキム・ミンジュン、活動名は Jun. K である。改名をして、ネチズンに面責される(面と向かって責められる)こともあったと聞く。「JYJキム・ジュンスにびびったの」という原初的面責から「うまくいきたくて名前を変えたのか」​​「変えても俳優の名前なのか」「活動名はまた何なんだ」など。何をしても改名に関する悪質な書き込みがあふれてるのを見たら、彼も気に障るし、傷つきもした。しかし、Jun. K には名前を変えなければならない事情があった。そして、改名はJun. K の家族、人生のすべてを含んだ事件だった。

2012年1月、Jun. K は父を失った。亡くなる一週間前、父とカフェで向かい合い、闘病中だった母をちゃんと面倒をよくみようと約束して別れた後だった。心筋梗塞。突然の死だったから、当時24歳のJun. K には、あまりにも大きい悲しみにならざるをえなかった。経済紙の記者出身だった父は厳しかった。しかし、机に向かって勉強していた中学生のJun. K の肩を両手でぎゅっと押して、無言で背を向けるような暖かい家長でもあった。そんな父が亡くなるまで望んでいたのがジュンスの改名だった。そして、やはり大きな病気を患っていた母が大手術を控えて5回目の全身麻酔を受ける前日、Jun. K の手をぎゅっと握って願った。 「お父さんの遺言だから、名前を変えることができない?」

Jun. K にとって2016年は飛躍を意味する。日本市場では、ソロ歌手としてのアリーナツアーができるほどの人気を得た。おそらく2PMメンバーの中で、日本市場では、アーティストとして最も認められている。 2PMも飛躍が必要である。その中心で2PMの道を音楽的に提示しなければならないのがJun. K である。その跳躍の第一歩として仮面をかぶってMBC「覆面歌王」に出演した。ソロ歌手Jun. K のステージを見せたいという心だった。そして、『ほろ酔いトーク』に会った。放送では、多くはできなかった話をした。お父さん、お母さん、その名前をいうだけで胸がつまるが、今日だけは存分に話した。飛躍するJun. K のはじまりだから。




- ほろ酔いトーク定番の質問です。酒量はどうですか
「焼酎のボトル1本半ぐらいです。それぐらい飲んだらとても酔います。ビールはお腹がふくれるのであまり飲まないです。焼酎がある飲み会は好きなほうです。」

- お酒飲むときは、主に誰と一緒ですか
「ぼくらのメンバーでなければキム・ジョハン兄さんです。偶然の機会で兄さんと親しくなって、よく一緒に時間を過ごします。キム・ジョハン兄さんがよくお酒を飲ませますよ。」

- コミュニケーションができているメンバーは誰ですか
「6人すべてそう。最近一緒にお酒を飲みましたが、個人的なことも気兼ねなく話をする友達です。悩みを交わして。ぼくもそうです。」

- 最近どんな話をしましたか
「当然2PMの未来ですよ。昨年JYPと再契約をしました。でも、来年は軍隊に行く必要があります。ぼくとテギョンとです。残りのメンバーも軍隊にいつ行くのか。そん​​な話もしました。決まったことはないですが、結論は出たんです。ぼくたち6人は解散することはないということです。もう一度確信を持つ時間になりました。」

-2PMは最後まで行くという..
「解散はありません。ぼくたち同士で話しました。みんな今30代になろうという時期なので、人生についてもう一度考えてみるようになったようです。それでも2PMが消えるとかそんなことは絶対にないと思います。メンバーが変わったりすることもです。振り返る時間を持つようです。不思議だったのは、話をしてみるとみんな大人になっていましたよ。駄々っ子のようだったジュノさえもですよ。」

- 最近放送されたMBC「覆面歌王」で準決勝まで行きましたね。成績に満足してますか
「過分な成績でした。『覆面歌王』はふつう3週間程度の時間を持って準備するのに、ぼくは録画5日前に突然のオファーを受けたんですよ。時間はありませんでしたが、前から出たかった番組だったので出演することにしたんです。2日前にバンドの練習をしてあたふたと準備しました。曲の選択にはそれとなく制約が多かったんです。以前に出演した歌手が歌った曲はだめです。推薦された曲の中で僕が歌った曲がイ・ジョク先輩の「Rain」です。この曲は、ぼくの母が好きな曲です。ぼくはあまり知らなかった曲でした。シャウトするのではなく、ふだん歌うスタイルでさらりとしたかったです。最終的に、第3ラウンドまで行って驚きました。準備した曲はすべてやりました。「ママ」という曲を歌ったときは、観客の中に泣いている方が何人かいらっしゃいました。声だけで伝えることができる歌の力を改めて知ることになりました。」

- 後悔はありませんか
「時間があれば、もっとうまくできなかっただろうかと思います。先に出演したMBLAQのジオに連絡して助言を求めたのですが、彼は1か月前から準備したと言うんですよ。ぼくは5日しかなかったじゃないですか。」




- 本当に歌いたかった歌は
「日本に初めて行って2PMとしてデビューして公演をしましたが、『雪の華』を本当に歌えなくて話題になったことがあります。『音程離脱』と出たが、人々に『ヤギの華』とからかわれたりもしました。本当に恥ずかしいことです。歌手として喉の管理ができなかったことから起こったことでした。声帯結節があったのですが、新人だからできないという話ができなかったです。まだ映像があるが、それを挽回したかったです。ヤギの仮面をかぶって出て『雪の華』を歌おうとしたけど、準備する時間がありませんでした。覆面制作もスケジュール上、不可能でした。」

- Jun. K のご両親はどんな方でしたか
「父は厳しい方でした。経済新聞社の記者だった。母は倹約しながらぼくたちと多くの時間を過ごしました。中学2年生のときに音楽をしたいと思いましたが、最初はできないだろうと思いました。父が厳しいうえ、ぼくに投資することができる状況ではなかったんです。ご飯に飢えるほどではなかったですが、塾に通うような状況ではありませんでした。当時、ぼくは数学があまりできなくて、課外費が30万ウォン程度しました。母が見計らって父に言ったところ結局、父と母がけんかにまでなりました。そんな雰囲気でした。そうするうちに高校1年生のとき、ぼくは進路を音楽に固めました。実用音楽を教えるところがありましたが、またお金がかかるでしょう。家には当然のことながら言えなかったし、結局大邱で開かれたいくつかの歌謡祭に参加しました。そうするうちに偶然、賞をもらいました。賞品にミニコンポ、キムチ冷蔵庫、炊飯器ももらいました。その時、母はぼくの決心を調べていたようです。ぼくの父はまだ反対してたんです。高校2年生のとき、ソンヘ先生がする東城路歌謡祭があったのですが、そこで1位となり29インチ平面TVをもらいました。父がいる居間に置いたところ『これは何だ』と言いながらもお好きでしたよ。そのとき、レッスンに通うことがOKになったんです。月に28万ウォンずつ出して9か月程度通って、JYPとYGにデモテープを送るまでになったんです。」

- デモテープを送ったあとの結果はどうでしたか
「実はYGから先に連絡が来ました。その後一緒に音楽をする友達とYGに行きました。ムグンファ号に乗って。そのとき、ヤン・ヒョンソク社長に会いました。2004年の初めだったか。そのときヤン社長がG-DRAGONとテヤンに会わせてくれて88年生まれのグループをつくろうと思うと言いました。その後、社長の前で『I believe I can fly』を歌いました。社長は、デモテープとまったく同じだ、うまいと言ってくれました。その賞賛を受けて気持ちよく大邱へ帰る途中、JYPから連絡が来たんです。週末にJYPオーディション大会があるから参加してみなさいという提案でした。結局、パク・ジニョン兄さんも参加したそのオーディションで1位となり、自然にJYP練習生になりました。YGに電話をして事情を言ったところ、そこでもうまくやりなさいと応援して下さいましたよ。 "

-JYP練習生になった以降は
「ぼくはダンスを本当に踊れませんでした。基本から学びました。本当に怖い先生にトレーニングを受けましたよ。そのときジニョン兄さんが、このような注文をしたそうです。『この子を3か月以内にレインのように踊ることができるようにしておいて』ですって。だから雰囲気は本当に殺伐としてたんです。 」

-2PMの中で最も先に練習生になりましたね
「そうですよね。でもデビューまで大変でした。デビューが6回も失敗に終わったからです。いつからかは機会が与えられることに回避(拒否?)がでましたよ。不安だったりして傷をたくさん受けました。この道が合っているのかいないのか、という刹那にニックン・テギョンと同い年のように親しく過ごしながら一緒に頑張っていこうと慰め合いました。」

- 練習生生活の中で最も大変だったことは
「誤解を受けて会社を追い出されたことがありました。毎日朝9時に出勤カードをとって練習をしていました。9時までに2分しかなくて、ひとまず他の練習生の友達にぼくの出勤カードをとってくれと頼んで、ぼくはコンビニで朝食の代わりに食べるものを買っていました。その日、新人開発チームから呼び出されました。なぜ代理出席をさせたかって。そのとき誤解がうまれてぼくに大邱へ帰れというんです。でも大邱にどうやって帰るというんですか。そのとき、ひと月は友達の大学の寮で生活して、もうひと月は友達がいる考試院で生活しました。生活費がないから新聞配達もして、土方もしましたよ。とりあえずぼくができることなんてあまりなかったんです。そのときは、よくないことが多かったです。」




- ソウル生活が金銭的に大変だったんです
「2011年からお金を稼ぎ始めました。そのとき、ぼくたちの家はカビが生えるほど良くなかった。2012年1月に父に会って引越しをしようと言いました。そのとき、母が調子がよくなかったのでもっとよい家に迎えたかったんです。そのとき、母が趾間神経腫という、足を地面につけるたびに痛い病気にかかったんです。だから手術を5回しました。全身麻酔をしなければならない大きな手術でした。そのとき、母の病室にいた父と大邱 寿城池に行って、話をしました。父とそのように一緒に出かけて話をしたのは初めてだったように思います。しかし、一週間後に父が突然、心臓発作で亡くなりました。そのとき弟とぼくは一緒に旅行中で、父が倒れたという話を聞きました。息をしていないって。そのときは、心ここにあらずで、信じられもしなかった。5分後に、医師から電話が来て、父が亡くなったから来いと言いましたよ。あまりにも衝撃を受けてどのようにしたらよいかもわからなかった。行ったところ、母も茫然としていて、母はぼくらの旅の邪魔になるかと思って父が倒れたことを一歩遅れて話しました。父が亡くなった日は、信じられず、涙もでなくて、これはいったい何だと思って話をすることもできませんでした。父の遺体を磨くとき、父を見たそのとき、世界がすべて崩れましたよ。それが旧正月前だったのに、多くの方がいらっしゃいました。大邱までです。父をそんなふうに見送り、母がひとり大邱に残されるから、母を迎えて面倒をみなくてはと思ったんです。弟が水原京畿大に通っていたので、水原に家を引っ越しました。」

- 改名の話は、どのように出てきたのですか
「父が亡くなって1か月後に母に聞きました。父がぼくの名前をミンジュンに変えることを願っていたって。それでも変えるのは嫌だと10か月の間、話をききませんでした。実際、名前を変えてもよいことがないでしょう。これまで知られてきたぼくの名前があるし。そんな中、母が甲状腺がんを患って入院をすることになりました。足の手術を5回もしたあと甲状腺がんまでかかったから医師が言うんです。今回全身麻酔をして手術する場合、目覚めないこともあると。そのとき母が病室で名前の話をまたするんです。だから、ジニョン兄さんとジョンウク社長に話をしました。すると、ジニョン兄さんが『こういうときは、お母さんの言葉を聞くほうがよいだろう』と言って、ミンジュンと改名をするようになりました。そのとき、作曲家Jun. K としての活動はそのままJun. K にしようとの意見がまとまりましたよ。ところで改名をしてからは、人々が『なぜJun. K なの』と悪口を言いましたよ。事情を話しても、人々はきざっぽく見るようでした。どうしても2PMをめぐってさまざまなことがあったのでアンチファンもいるんですよ。そんな中、日本でぼくがソロアルバムを出してオリコンチャート1位に上がりました。全曲自作曲だったんです。韓国では、『Jun. K 1位』と報道がされましたが、Jun. K が誰ともみな知らないんですよ。また名前の話で成果が遮られるようでした。本当にストレスがひどかったです。」



- Jun. K にとって父とは
「一つの言葉で語ることはできません。父とは対立的な関係でした。ぼくがまだ忘れられないことがあります。中高等学校のとき勉強をしていると、父が肩をつかんでいくんですよ。その気持ちを忘れることができませんでした。ずっしりと暖かい感じを。ぼくは本当に申し訳ない。ぼくはもっと父を幸せにしてあげれたのに。あまりにも若かった。時々、大邱に帰っても友達に会うのに忙しくて、両親と時間を過ごしていません。先にお父さんを失った友人がいて、いつも「両親によくしろ」という言葉を口癖のようにしてましたよ。今はぼくが言っています。必ずお父さん、お母さんと多くの時間を過ごしてっと言って。ぼくはそんな勇気がない性格なようです。ぼくの両親もそうだったようです。残っている人たちはそうじゃないといいですね。父と呼ぶ人がいなくなったということが信じられません。まだぼくには大きくて心強い存在です。」

- 家長としての責任感もあると思います
「父が亡くなったときは大変でした。ぼくの人生最悪の年でした。間違いもたくさんして、お酒もたくさん飲んで。以降は、家長として責任を持つようになりましたよ。父が亡くなったあと死亡届を出して、父の会社を整理して、すべてのことをぼくがしました。母はからだの具合がわるかったので僕がしなければならなかったんですよ。ぼくも当時若かったからよく分からなかったけど、まわりに手伝ってくれる人もないんですよ。その時感じました。ぼくは悲しんでるだけではいけない。社会を学んだと思います。成長したというか。弟に責任を押しつけようとしていたときもありましたが、すでに青春の50%を捨てることになった弟を考えるとできませんでした。弟は本当に有難いですね。」

- お母さんはいかがですか
「今は水原にいます。アパートは、ぼくが用意しました。母の体調は良くなったり悪くなったりです。」

- 気になります
「とても疲れます。明日(3日)が父の祭祀です。父の祈日のたびに大邱追悼公園に行って、声を出して話しています。『お母さんをちゃんと守ります』って。そんなことで母と弟とよく気を遣ってうまくやろうと努力してます。」



- ソロJun. K には韓国で会うことができますか
「そうですね。会社では新曲があがればモニター要員30人が評価を進めます。80点以上になれば出せます。ぼくは実際にはそのシステムについて良いとは思っていません。その80点という点数が正解ではないでしょう。昨年も、そのシステムの中でうまくいったケースもあるけど、逆のケースもあるから。これからは可能な限りぼくの話をしたい。ぼくが生きてきて感じたことを人々が共感してくれればいいですね。以前は芸術的な要素を加味したので、今は真正性のある音楽をしようとしています。」

- 日本では、ソロJun. K の人気が本当に高いです
「2PMとしてアルバムを出したのはかなりです。ぼくが作った歌では2PMまで合わせれば5つです。Jun. K の名前ではミニアルバムを2枚発表しました。ソロアルバムでデイリー1位、ウィークリーは2位を記録しました。1 、2集の両方だよ。本当に有難いです。」

- 韓国とは全く異なる反応ですね
「日本はどうしても放送より公演中心の活動がよくなっています。誰がよいという口コミさえ出れば公演を見に来てくださる。日本では直接見ることをが大切であるように思います。公演では、可能な限り、ぼくらの色を見せたかった。黙々としました。いつかぼくによい機会が来るだろうと。そうするうちに、日本でソロの話が出てきて出すことになったし、結果が良かった。」

- 韓国のソロで見せたいものは
「韓国では、ぼくの音楽はまだ一つもご存知ないと思います。とりあえずぼくが表わしたいものを示せれば、人々が「何」と関心を持ってくださると思います。2PMとして記憶される方が多いのに、ソロとして出たぼくに反感があるだろうか、という考えもあります。人々がどのように受け入れてくれるかはわかりませんが、ぼくがしたい音楽は必ず成そうと思います。」

-2PMが行くべき目指すところが気になります。もうすぐ30代の年齢ですから
「30代なんてあっという間に来ますね。2PMが見せることがもっとあると考えています。まだメンバー一人ひとりが見せることがきていないものがあるんですよ。人々の共感を受ければその時2PMが一緒にしたときの相乗効果が大きいようです。これまでと違うように見えることは何だろうか。人々が考えている2PMは服を裂いたりするけれど、ぼくが見たときにはターニングポイントが必要です。メンバーの個人活動も本当に重要です。2PMが退出する(終わる?)ことはぼくたちも望んでいません。」



- パク・ジニョン氏に最もありがたいたことがあるならば
「ぼくを連れてきてくれたことがありがたいです。選んだという事実です。ジニョン兄さんに学んだことは本当に多いです。音楽的にね。横でその兄さんが作業していること、レコーディングしているのを見て。ジニョン兄さんは勉強を本当にたくさんします。懸命に生きる人です。体の管理もそうです。いまだにステンレスを使わないそうですね。体によくないからって。一度、兄さんのコンサートに行って、本当に驚きました。兄さんが60代まで歌うだろうって言うから。ウヨンと二人でしたが、その話を聞いてため息がゆっくり出ました。実際、もうやめて、ぼくらにちょっと機会を与えるくれるだろうと考えるでしょう、ハハ。本当に情熱だけはすごいと思います。いつもありがたい兄さんです。人生に危機が迫ったときにも、より大きな危機にならないよう助けてくれます。」

-Jun. K の愛も気になります
「ガールフレンドはいません。理想は、昔から俳優キム・ミンジョン姉さんでした。だから、姉さんがぼくらのコンサートに来たときには写真も撮りました。ぼくのファンがキム・ミンジョン姉さんに会ってサインをもらってくるほどです。子どものころ、「キッドカップ」を見て惚れたんです。忘れられない。ぼくは、素直で、世界の人々がぼくを罵るときにもぼくの味方になってくれる人であれば、いいですね。計算をして問い詰めるのではなく、信じてくれる方がよいと思います。信頼、素直さ、そんなことが重要だと思います。」




もんのすごく
いろいろかたってくれてる
よいインタビュー記事でした









でも
つかれた..

とうぶん、
訳はしたくない..


ケホケホ..風邪








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